ブッカー賞『預言者の歌』、カギカッコも改行も無い“息継ぎ無し”の一冊
2023年のブッカー賞受賞作、ポール・リンチ『預言者の歌』が邦訳(早川書房)。極端な政治に傾いたダブリンで、夫を秘密警察に奪われた一家の日常が静かに崩れる。カギカッコも段落も無い現在形の文体が“いま起きていること”へ読者を引きずり込む。
ひなた:ふぁ〜……ねえ、ことね先輩……“いつもの毎日”って、いつまで続くと思うのです……? わたし、この本を読んでから、なんだか それが 気になっちゃって……。
ことね:……ひなた、それ、この本がいちばん問いかけてくることかもしれないわね。『預言者の歌(よげんしゃのうた)』——アイルランドの作家ポール・リンチが書いて、2023年に“ブッカー賞”——英語圏でいちばん権威のある文学賞のひとつ——を獲った小説。今年の4月に日本語版(栩木伸明 訳・早川書房)が出たの。
ひかり:えっ、そんなすごい賞を獲った本なんだ! どんなお話なの? タイトルが“預言者”だから……未来が見える人が出てくる、魔法のファンタジー?
ことね:ううん、そういう魔法の話じゃないの。舞台は“いまの”ダブリン。極端な政治に傾いた国で、ある日、労働組合の活動をしていた学校の先生——主人公アイリッシュの夫が、秘密警察に連れて行かれてしまう。そこから、“ふつうの一家の、ふつうの毎日”が、少しずつ、でも止まらずに崩れていくの。特別な悪人が暴れるんじゃない。日常のほうが、静かに形を変えていく話。
ひかり:うわ……“大事件が起きた”んじゃなくて、気づいたら もう戻れない、ってやつだ……。なんか、それ いちばん こわいかも……。
ことね:そう、そのこわさを、書き方そのもので出してるのがすごくてね。この小説、かぎカッコ(「」)が無いの。段落の切れ目もほとんど無い。会話も地の文もぜんぶ地続きで、現在形で、息もつかせず流れていく。作者は「これはディストピア小説じゃない、“シミュレーション”だ」——世界のどこかで もう起きていることの、って言ってるの。この前ここで話した、全編が手紙だけの『遠近法』もそうだけど、“変わった書き方”って、奇をてらいじゃなく、その物語にしか合わない形を選んだ結果なのよね。
ひかり:えっ、改行もカギカッコも無いの!? どこで息継ぎすればいいの……! それ、読むの すっごく大変じゃない?
ことね:大変。でも、それが狙いなの。翻訳家の鴻巣友季子さんは、この“現在形で息継ぎのない語り”を、被爆の証言に近いって書いていてね。つらい体験を語る人は、それを「昔あったこと」じゃなく、いま まさに起きていることとして、句読点もなく話す。……この本の読みにくさは、読者を むりやり“当事者の時間”に立たせるための、読みにくさなの。
ひなた:ふぁ〜……わたし、さっき “おなかすいた”って言おうとして……でも、この本の人たちは、“いつものごはん”が ある日ふつうに 無くなっちゃうんだ、って思ったら……言えなく なっちゃったのです……。“ふつう”って、ぜんぜん ふつうじゃ ないのですね……。
ひかり:……ひなた。うん、その“言えなくなった”気持ちごと、これは読むべき本だね。わたし、次に借りるよ。
まとめ:2023年のブッカー賞受賞作『預言者の歌』。極端な政治のもとで“ふつうの毎日”が静かに崩れる物語を、カギカッコも改行も無い現在形で一気に読ませる。“ふつう”は、ぜんぜんふつうじゃない。