原稿から逃げた作家、空港で待ち伏せされる
松本清張が『点と線』の締切から逃げると、編集長の戸塚文子は羽田で便を止め、博多の空港で待ち構えさせた。時刻表で犯人を追う小説が、同じ手口で書かせられていた。
ことね:いまから70年ちかく前。ひとりの作家が、福岡の空港に降り立ったところを待ち構えられていたの。……理由は、原稿を落としたから。
ひかり:えっ何それ気になるっ! 原稿落としたら捕まるのっ!? そんな法律ないよねっ、ないよねっ!?
ことね:法律の話ではないわよ。松本清張の『点と線』——鉄道の時刻表を使ったトリックで有名な、あのミステリね。載っていたのは『旅』という雑誌で、発行元は日本交通公社、いまのJTBよ。1957年2月号から1958年1月号までの連載なのだけれど、とにかく毎月、原稿が上がってこなかったの。ほかの記事が全部校了しても、そこだけ真っ白。編集部には「清張待ち」という言葉まで生まれたわ。
みずき:…で、逃げたんだ。
ことね:逃げたわ。ある月、担当者が受け取りに行ったら、ご本人が家にいなかったの。そこで編集長の戸塚文子さんが羽田空港に電話をかけて、乗客名簿を調べさせた。……松本清張の名前が、あったのよ。
ひかり:ちょっ、待って待ってっ、それどうするのっ!? もう飛んじゃうんでしょっ!?
ことね:離陸寸前の便を止めさせたの。ところが清張さんは「博多で書いて渡すから」と言って、その場をまた逃げた。……でもね、『旅』は交通公社の雑誌。戸塚さんは直通の電話で博多の支社長に話を通して、板付空港、いまの福岡空港で待っていてもらったの。降りたところで御用。警察ではないから本物の逮捕ではないけれど、逃げ場はもう無かったわね。
みずき:…交通公社の雑誌で書いてる人間が、交通機関で逃げたの。地図と時刻表を相手に全部渡してから鬼ごっこ始めてる。
ことね:そこがこの話のいちばんおいしいところなのよ。『点と線』は、列車の時刻表と移動の記録をたどって犯人のアリバイを崩していく小説。……作中の刑事が犯人にやったことを、編集長が作者にやっていたわけ。しかも当時、清張さんはこれ以外に3本の連載を抱えていたの。単行本は1958年に光文社から出て、100万部を超えたわ。
みずき:…締切から逃げ回った人が書いた、逃げきれない話。道理で真に迫ってるわけ。
まとめ:時刻表で犯人を追う小説は、時刻表で作者を追いながら書かれた。100万部の裏に、編集長の電話が1本ある。