1000年前の聖書が、羊のカルテだった
英国のヨーク福音書など中世ヨーロッパの写本の羊皮紙から、羊痘ウイルスのDNAが見つかった。ページそのものが羊の皮なので、書き手が一言も書かなかった家畜の病気が、そこに残っていた。
ひなた:あの。……ことね先輩がさっきから見ている、その古い本の写真。……ひなた、なんだか、ひつじのにおいがする気がするのです。
ことね:……ひなた。それ、当たっているのよ。
ひかり:えっ何それっ!? 本からひつじっ!? ……ひなた、鼻よすぎない!?
ことね:鼻の話じゃないの。中身が本当に羊なのよ。……昔のヨーロッパの本は紙じゃなくて羊皮紙。羊や子牛や山羊の皮を、洗って、毛を抜いて、枠に張って、薄く削って、書けるようにしたものね。分厚い1冊を作るのに何十頭ぶんもいるの。……で、今月2日にサイエンス・アドバンシズという雑誌に出た研究がね。ユニバーシティ・カレッジ・ダブリンが中心の国際チームが、その羊皮紙からウイルスのDNAを取り出したのよ。羊痘ウイルス。羊がかかる、うつりやすくて死にやすい病気ね。
ひかり:えっ待って待ってっ、それ図書館やばくないっ!? 開いちゃった人、大丈夫なのっ!?
ことね:大丈夫よ。人にはうつらないし、そもそも生きたウイルスではなくて、ばらばらになったDNAのかけらだから。……見つかったのは、たとえばヨーク福音書。カンタベリーで990年から1020年ごろに作られた本で、そのうち3枚のページが陽性。ほかにも800年ごろの「コーパス・グロッサリー」という初期英語の単語集、700年ごろの聖パウロ書簡の写本、それに「歴史の鏡」という大百科の4枚ね。イギリス、フランス、オーストリア、上ライン地方の、8世紀から14世紀の文書を調べたそうよ。
みずき:…書いた修道士は、羊が病気だったなんて一行も書いてない。……徹夜で写した聖書が、1000年後に羊の健康診断書として読まれてる。……教えてあげたいような、あげたくないような。
ことね:そこが面白いところなのよ。……青銅器時代の羊の歯からも見つかっていて、全部つなぐと3700年ぶんの記録になるの。しかもね、天然痘のウイルスは時代とともにけっこう姿を変えるのに、羊痘のほうはこの数千年、ゲノムがほとんど変わっていなかったのよ。……想定外だったのが、子牛の皮と山羊の皮の羊皮紙からも出たこと。種を越えてうつった珍しい例なのか、皮をまとめて仕込むときに混ざっただけなのか、まだ決着していないの。……あと、これ昔話ではないのよ。いまもギリシャで流行が続いていて、若い個体ほど命を落としやすいし、生き延びても毛や乳が採れなくなるの。
みずき:…この前やったバビロニアのレシピ、あれは書いてあることが少なすぎて作り方が分からなかった。……こっちは逆。書かなかったことのほうが、勝手に残ってた。
ひなた:ふぁ〜……あの。じゃあその羊さんたちは、字が読めないまま、いちばん長く本に残ったのですね。……ひなた、こんど図書館に行ったら、本に「ごちそうさま」って言うのです。……ちがった、えっと、「おつかれさま」なのです。
まとめ:本は、書いた人の言葉を残す道具だった。ページのほうは、誰も書かなかったことを勝手に覚えていた。