88時間で解けた難問に、1年かけた人がいた
OpenAIが9月8日、100万ドルの懸賞がかかったナビエ–ストークス問題を未公開モデルのエージェント群で解いたと発表した。着手から88時間。ほぼ同時に、1年かけて近い問題を追っていた研究者が「噂を聞いて割り込まれた」と抗議している。
ことね:……コップの水を、スプーンでぐるぐるかき混ぜるでしょう。あの渦のどこか一点だけ、水の速さが急に無限になる。そんな瞬間が来ることはあるのか。……100万ドルの懸賞がかかった問題は、ずっとそれなのよ。
ひかり:えっ何それこわいっ! お水そんなことするのっ!? ……ていうかことね先輩、なんでいきなりコップ持って語りはじめたのー?
ことね:ナビエ–ストークス方程式、という名前なの。水や空気の動きを書き表す式で、飛行機の設計にも、天気予報にも使われているわ。……ただね、そんな身近な式なのに、いちばん肝心なことが誰にも証明できていなかったの。「3次元で、なめらかな流れから始めたら、いつまでもなめらかなままか」。クレイ数学研究所が2000年5月に、7つの難問に100万ドルずつ懸けたでしょう。そのうちの1問がこれよ。……昨日、OpenAIが「解いた」と発表したの。答えは、壊れる側。なめらかさは、いつか壊れることがある、と。
ひかり:解けちゃったんだっ! すごーいっ! ……ねえねえ、どのくらいかかったのー? 何十年とか?
ことね:88時間よ。……9月1日にエージェントを走らせて、9月5日の土曜日に届いたの。そこからLeanで形式化して検証するのに、さらに17時間。Leanというのは、先日この部室で話した、フェルマーの最終定理を1300万行に書き直したあの道具ね。人間向けの証明を、機械が一段も飛ばさずに検算できる形にするやつ。……走らせたエージェントは、報じられているところでは1万ほど。全部の問題を合わせて490万通のやりとり、書いた量が3000億トークン。ナビエ–ストークスだけで270万通、1300億トークンだそうよ。
みずき:…で、いくら燃やしたの。100万ドル拾いに行くのに。
ことね:使ったのが未公開の社内モデルだから、本当の原価は誰にも分からないの。ただSimon Willisonさんが「公開されているGPT-6 Astraの値段で3000億トークン出したら1500万ドル」と計算していたわ。……それと、100万ドルはすぐには入らないのよ。クレイのルールでは、査読のある雑誌に載って、そこから2年、数学の世界に受け入れられて、ようやく審査が始まるの。間違いを見つける時間をとるためね。……ちなみに7問のうち解けたのはポアンカレ予想だけで、そのペレルマンさんは受け取りを断っているわ。
みずき:…ことね先輩。さっきから、まだ何か抱えてる顔してる。……先にやってた人がいるんでしょ。こういうの、だいたいいる。
ことね:……いるの。NYUのトリスタン・バックマスターさんと、レヴェント・アルパージュさん。アルパージュさんの勤め先はAnthropicよ。二人はほぼ1年、この周辺の問題に取り組んでいて、下書きをずっとClaudeとCodexに入れながら進めて、8月15日に突破したの。……そこで数学者の噂が回りはじめた。OpenAI側の説明はこう。「9月1日、ミレニアム問題が2つ解かれたという噂を聞いた。それに触発されて、未公開モデルで全問題に当たらせた」。……バックマスターさんは、最初のプロンプトを送ったのはいつかと尋ねて、しばらく直接の答えをもらえなかったと書いているわ。自分たちがCodexに入れ続けた下書きで学習していないかと二度尋ねて、二度目には答えが返ってこなかった、とも。OpenAI側は「彼らの仕事は公開されるまで一切見ていない。ただ、非識別化されたデータがモデルを良くした可能性は、低いとはいえ否定できない」。証明も別物で、隣のオイラー方程式については外力ありと外力なしで、そもそも示した中身が違う、と言っているわ。……共同発表を持ちかけて、バックマスターさんは共著者に誘ったそうよ。アルパージュさんは、勤め先が競合だから誘わない、と伝えたうえで。
ひなた:ふぁ〜……あの。ひなたのノートは、だれにも見られていないけれど、おぼえられている。……そういうことって、あるのですか?
まとめ:賞金の受け取りは、査読を通って2年待ち。揉めごとのほうは、発表の当日から始まっている。