パン生地を3分こね倒したら、イギリスの畑が変わった
英国の経済記者エド・コンウェイが、1961年に生まれた製パン法「チョーリーウッド法」の来歴を書いた。生地を機械で猛烈にこねて発酵の時間を縮め、たんぱく質の少ない国産小麦でも食パンを焼けるようにした方法だ。
ことね:ひかり、そのサンドイッチ、かじる前にちょっと断面を見せてもらえる? ……パンの小さな穴の形で、どうやって作られたパンなのか、見当がつくらしいのよ。
ひかり:えっ何それっ! パンの穴って、ふわふわにするための、ただの穴じゃないのっ!? ……はいっ、どうぞっ! ちっちゃい穴がいーっぱいっ! ことね先輩、これは何パンですかっ、名探偵っ!
ことね:イギリスの経済記者、エド・コンウェイさんのエッセイの話よ。題は「パンの小さな穴が、あなたに何かを語っている」。新しく出た本の宣伝をかねたものね。イギリスのスーパーで袋に入って売っている食パンは、ほぼすべてが「チョーリーウッド法」で作られているの。1961年、ロンドン郊外のチョーリーウッドという村にあった、製パン業界の研究団体で生まれた作り方よ。ふつうのパンは、酵母が時間をかけて発酵して出すガスで膨らむでしょう。この製法は、その泡づくりの大部分を、巨大なミキサーで生地を数分間、猛烈にこねることでまかなうの。何時間もかかっていたところが、数分。コンウェイさんの言葉では「生産性の奇跡」ね。
みずき:…で、それ誰得? 早く焼けて喜ぶの、工場だけでしょ。
ことね:それが、国ぐるみの話なのよ。パンをふっくら膨らませるには、小麦のたんぱく質、つまりグルテンが多いほうがいいの。生地がよく伸びて、ガスを閉じ込めてくれるから。ところが、雨の多いイギリスの畑でとれる小麦は、たんぱく質が少なめ。乾いたカナダやアメリカの大平原の小麦のほうが、ずっと強いの。コンウェイさんによると、戦後まもないイギリスでは、パンに使う小麦のおよそ65%がカナダ産だった。2度の世界大戦のあいだ、国民が食べていけるかどうかが、カナダから小麦を運べるかに少なからずかかっていた国よ。政府が「自分の国の小麦で食べていけないか」と考えるのも当然よね。チョーリーウッド法なら、たんぱく質の少ない小麦でも食パンが焼ける。いまでは国産小麦を85%まで使った食パンも作れて、パン作りも製粉も、農業まで変わったの。コンウェイさんは、近代イギリス史でも指折りの「産業政策」だったとまで書いているわ。
ひなた:ふぁ〜……パンが、自分の国の小麦でふくらむようになったのです。……ひなたが毎朝食べている食パンの小麦は、どこから来ているのですか?
ことね:日本も、少しイギリスに似ているの。小麦は国内で使う量のおよそ8割を輸入していて、ほとんどがアメリカ、カナダ、オーストラリアから。食パン向きの強い小麦は、とくにアメリカとカナダのものが中心ね。北海道の「ゆめちから」みたいな、パン向きの国産品種もあるけれど。……それから製法の話。コンウェイさんいわく、世界のスーパーに並ぶ工場の食パンは、たいていアメリカ生まれの「スポンジ・アンド・ドウ法」か、チョーリーウッド法のどちらか。「工業パン界のコーラとペプシ」ですって。アメリカやシンガポールはスポンジ、インドや上海はチョーリーウッド。スポンジ・アンド・ドウは日本では「中種法」と呼ばれていて、日本の大きなパン工場でもよく使われているわ。粉の一部と水と酵母を先に何時間か発酵させておいて、あとから残りを混ぜる作り方ね。そして見分け方が、さっきの穴。スポンジ法のパンは穴が丸くて、チョーリーウッド法のパンは、猛スピードでこねるせいで、少し細長い楕円になるそうよ。
ひかり:えーっと、まるい……ような、ほそながい……ような……っ! ことね先輩、穴がちっちゃすぎて、名探偵、ギブアップですっ!
みずき:…書いた本人も最後に「チョーリーウッドのパンは、そもそもパンなのか」って書いてる。「リアル・ブレッド・キャンペーン」って団体は、この作り方に反対してるし。……で、パンの歴史を変えた研究所の建物、いまは老人ホーム。
ひなた:ふぁ〜……穴の形のむこうには、雨の多い畑があったのです。……ひなたも朝、3分ぐるぐるゆすって起こされると、ふわふわじゃなくて、細長いお顔になってしまうのです。
まとめ:イギリスの食パンの少し細長い穴は、雨の多い国の小麦で国民を食べさせようとした跡だった。