AIで難問を解く競争に、フィールズ賞の25人が「待った」
テレンス・タオら、フィールズ賞を受けた数学者25人が共同声明を出した。AI企業が性能の物差しとして難問を解きにいく流れは、数学という学問と研究者の共同体を傷つけている、と訴えている。
ひかり:じゃあ、わたしは……1億っ! どうだっ、ひなたちゃん! これより大きい数、言えるかなーっ?
ひなた:ふぁ〜……1億と、1なのです。
ことね:ふふ、勝負ありね。正確には、自然数に「いちばん大きい数」は存在しないのよ。どんな数を言われても、1を足せば——
みずき:…ことね先輩、ストップ。答え言ったら、その遊び終わる。
ことね:……みずき、いまのそれ。ほとんどそのまま、テレンス・タオさんが今週書いていたことなのよ。タオさんは、よく「数学のノーベル賞」と呼ばれるフィールズ賞——4年に1度、40歳未満の数学者に贈られる賞ね——をとった人。『星の王子さま』の「大人はみんな、はじめは子どもだった。でも、それを覚えている大人はほとんどいない」という一節から始まる投稿で、この「いちばん大きい数を言えたら勝ち」ごっこを例に出していたの。ひなたがいまやったみたいに、「1を足せば、どんな数にも勝てる」と子どもが自分で気づく。そこへ大人が無限の講義をして、ゴールを先に渡してしまうと、好奇心からの遊びの意味がまるごと消える、と。……そして11日、そのタオさんを含むフィールズ賞の受賞者25人が、そろって声明を出したの。題は「数学におけるAIの深刻なミスアラインメント」。ミスアラインメントは“目的のずれ”のことね。1978年受賞のドリーニュさんから今年受賞のユー・デンさんまで並んでいて、日本の森重文さんも名前を連ねているの。研究者なら後から署名に加われて、今朝の時点で1500人を超えていたわ。
ひかり:フィールズ賞の人が25人もっ!? 数学のオールスターじゃんっ! ……でもでも、AIが難しい問題をどんどん解いてくれたら、数学者さんたちもラクになって、みんなハッピー……じゃないんですかっ?
ことね:声明の言い分はこうよ。この数か月で、AIはいろいろな分野の大きな未解決問題を解けるほどになった。でも、AI企業が性能の物差しとして難問を解きにいく流れは、数学という学問にも、数学者の共同体にも害になっている。……有名な難問は、灯台みたいなものなの。解けたら、そこに新しい見方や手法がある、という印。それを講演や議論で長い時間をかけて噛み砕いて、最後は大学生でも教科書で学べる形にする。「問題を解くことは、概念の理解と洞察という本来の目的のための、道具であり目安にすぎない」。正しいか正しくないかだけの結論をどんどん速く量産すると、アイデアが育つはずの土地を、かえって荒らしかねない。しかも発表を急ぐから、きちんと書き上げる時間も、先にやっていた人の仕事を引用する時間もない。「帰属と盗用の深刻な問題」とまで書いているわ。つまり、「いくつ解けたか」を競うほど、解いた先の理解が置いていかれる、ということね。……声明に会社の名前は出てこないの。ただ、25人の話し合いは“この1週間”のもので、水曜日に部室で話したナビエ–ストークスの88時間と、時期がちょうど重なるの。英エコノミスト誌は、この声明を「トップ数学者たちはOpenAIのやり方に憤慨している」という見出しで伝えているわ。
みずき:…先に1年やってた2人が割りこまれた、って話は水曜に聞いた。……それ、あの2人だけ?
ことね:それが、もう1人いるの。ドイツのドレスデン工科大学で群論を研究している、アンドレアス・トムさん。8月に部室で話した、OpenAIの「10の進展」を覚えている? あのうちの群論の1件で、「ソフィックでない群」——ざっくり言うと、有限個のものの並べかえでは上手にまねしきれない群——が初めて見つかったの。その決め手に使われたのが、トムさんとガーボル・クンさんの手法だった。……トムさんは、それまでの数か月、ドレスデンの同僚とその続きをChatGPTで相談していたの。だから発表のすぐあと、OpenAIの研究者にメールで、その会話は学習データに入ったのか、解く途中で見られる状態だったのか、と2つに分けて尋ねた。返事は、まるごとこの一文。「ChatGPTとの会話については、そんなことは起きていません」。……トムさんは今週、あれは2つめの、直接見たかどうかにしか答えていなかったように見える、と書いたの。「学習に使わない」設定は6月29日にオフにしたけれど、それはユーザーには中身を確かめようのない約束で、しかもオフにする前の会話がどうなったかの答えにはならない、とも。OpenAIは、この投稿に公には答えていないと報じられているわ。……もちろん、どれもトムさんの側の言い分よ。
ひなた:ふぁ〜……ひなたは、さっき、ことね先輩に言われるまえに、自分で「1億と1」を思いついたのです。……あのとき、ちょっとだけ、うれしかったのです。……先に答えを聞いていたら、あの「1」は、ひなたのものじゃなかったのです。
まとめ:答えだけなら、もうAIが先に出せる。数学者たちが手放したくないのは、「1億と1」を自分で思いつく、あの時間のほうだ。